日々を丁寧に暮らして

ゆーすげのセカンドライフ

「愛について」・・・慈愛と慈悲

ある人が答えてくれました。

人を思う大切さ。
同情ではなく同苦出来る人でありたいと。

同情ってどういう心の状態なんだろう・・・?

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以前、五木寛之さんの「愛について」の
人間愛についての記述について

今の時代は、愛よりも愛情というものが大事ではないか。
ただの愛ではなくて、下に情がつくことで
咽の渇いた状態から
湿った状態に変わっていく気がする。

愛というと、理知的な人間の感情。
それに情が加わると
みずみずしく、潤いを帯びた活き活きとしたものに変わっていく。

万葉人は、こころかなしものこころという言葉に
「情」という字をあてている。
「こころ」という漢字は心臓の心ではなくて情であった。

万葉人の心は、すなわち情であり、人間の心。

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心を満たすあたたかい思いやり、切ない思い、共感、同情
そういうものこそ日本人の愛の姿なのかも知れないと思った。

その人が言いたいのは
同じ心になるだけではなく
苦を共にできる人って意味でしょうか・・・?

それはつまり慈悲の愛ではないかと思ったわけです。

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慈悲の愛はどうして生まれたか
罪を犯した息子に
父は
「自分の罪の償いをしてきなさい。
そして、出てきたら
その償いをする生き方を一緒にしようと
いつまでも待っているから」
と励まし

母はただ
「もし、地獄に落ちるなら、自分も一緒について行くよ」
と泣いている。

慈の愛と悲の愛は励ましと慰め
慈の愛は、立ち直らせ、勇気付け、元気付ける愛。

そして高いところへ
共に歩いていこうという呼びかけの愛。

悲の愛は、何も言わずに黙っている。

ただ、自分に湧き上がってくるものが
相手に伝わっていくという無言の愛。

人間が、まだ立ち上がる余力を残して居るときは
励ましの愛はとても有効ですが
人間というのは
ときに、もう立ち上がることもできない
自分はもうこのままに行くしかないと
諦め切ってしまうときもある。

がんばっても、もう戻らない
戻れない時もあります。

この世の中
いくらがんばってもどうにもならないことがあります。 

そして、それを受け入れるしかない。

 でも受け入れられないときは
「頑張れ」という言葉は意味をなさない。
そういうときは、何も言わずに、側にいて
相手の顔を見て、黙って、相手の話を聞く。

言葉が出ないときには
じっと相手の心に寄り添って笑っている。

そして、すこしでも自分のほうに
相手の苦しみが伝わってきますようにと
心の中で願う。

そういう感情を悲という。

仏教の古い言葉「与楽抜苦」(よらくばっく)は
慈と悲の二つの愛情についての形容です。

慈は、人々を元気づけ、希望を与えるで「与楽」。

悲のほうは、人が今抱えている痛みや苦しみを軽くする。
苦しみを抜くということで「抜苦」。

今の時代には、むしろ悲の愛のほうがはるかに大事だと思う。

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20年近く前に、これを読んだとき
どうしても、どこかに記録しておきたいと思いました。

常日頃の想いが、そのままに言葉にあらわされていたからです。

その頃の私の愛は、悲の愛だったのですね。
古臭くて、影響のない、ただ、人をあまえさせるだけで
間違っているのではないかと
なんとなく自信のもてなかった愛の形でした。

そこが明瞭に描かれていて
まるで認められたような満たされた思いがしました。
私の愛は、常に悲の愛だったのかもしれません。
そして、求めているものもそれだったのでしょう。

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 仏教ってすごいですよね・・・。

 「与楽」とはコーチング・カウンセリング?

 「抜苦」とはセラピー・ヒーリング?

最初に戻ります。

人を思う大切さ。
同情も同苦も
どちらも必要で大切じゃないかってこと!

ずっとやり続けてきたことばかりだったようです。
カウンセリングマインドをもってコーチングする
何もかもが実践から始まっていたんだ・・

こんな時だから
こんなことを思い返している。

まだ、できることありそうな気がする・・・

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